ラブドールはエアーで膨らむダッチワイフから進化してきた事を考えるとアダルト使用する事を主たる目的として開発された事は間違いありません。しかしながら各社の現行品ドールを見てみるとシリコン製にしろ、TPE製にしろ、そのリアルさはアダルト商品としての領域を超え芸術品と言えるまでの域に達しているのではないかと思っております。もちろん個人差もある事を承知の上で考察するとラブドールを単にセックスの対象者としてみるにはあまりにその対価と不釣り合いであると言わざるを得ません。
何故ならドールは自分から動いてくれないし、すべてが受動的だからです。目線(視線)から髪の毛、指先からつま先まですべての動作をその娘に成り代わって表現してあげることが必要になってくるからです。20kgから30kgもある娘と愛なくして一緒に住むなんて想像できません。また仮に愛があったとしてもふたりの間にはかなりのハードルがある事も事実なのです。
たとえば、お風呂に入って清潔にしてあげたい。服を着替えさせてあげたい。メイクを直してあげたい。などなどいろんな思いが自然と湧き上がってくるでしょう。しかしそれを解決するには彼女を理解し、思いやり、本人(彼女)に代わって実行してあげる知識と行動力が必要になります。
以上の事から彼女と暮らすにはきれい事だけでは済まないリアルな日常の上にハードワークをこなす努力と愛が必要であることが言えるのです。
このハードルを乗り越えた時、初めて彼女に魂が宿り、無くてはならない存在となるのです。
生身の女性と比較はできませんが、少なくとも反抗的な態度であったり、嫌みを言われたりする事はないので個人的な感想ではありますが、ドールの方がずっと心地よいと思います。
このような状況は生活臭が漂い、芸術とは一番遠い事柄のように感じるのですが、実際は芸術品としての側面を感じる人が多くいるのも事実です。それはどのようなところからくるのでしょう?
それは彼女が理想のボディであったり、理想のフェイスであったり生身の女性にはないものをもっているからだと言えるでしょう。それを理想のメイクで仕上げたり、好みの洋服を着せてあげたりすることで自分だけの彼女をつくることが可能だからです。理想の彼女を眺めているだけで芸術を感じる人もいれば、その瞬間を画像などに記録したいという人もいるでしょう。生活のひとコマを記録したい人もいればモデルのように躍動的に美しくわが娘の輝ける瞬間を画像に残したい人もいるでしょう。
そうするとメイクの技術だけでなくカメラの知識も含めて撮影技術を習得することも必要になってきます。これこそがラブドールの奥の深さであり芸術と感じている所以でもあります。
ただし、芸術とは何ぞや?という観点から一番大事な視点が抜け落ちていると言えます。芸術とは表現者と鑑賞者が相互に作用し合うという点です。コピー商品は絶対に芸術とは言わないという事です。表現者からその価値を奪っているコピードールには芸術の欠けらもない事を知っていただきたいと思います。